西洋と東洋について(2)

本題の前に今日で全部のレポートを提出した。2semは4つのレポートを書いたわけだが、良かったのはグループレポート。ただ1sem同様、ほとんど自分の意見が言えなかったた。自分には足を引っ張らないようにするのが精一杯で、情報処理能力は修士/博士課程の彼らよりも低いと感じたし、彼らはバンバン意見を交わしているのに自分は会話を理解するのに精いっぱいでそこから発展させて専門的な内容について英語で言うのは厳しかった。日常的な輪に入っていくのと、しっかりと自分の意見を言えて、いろんなことを議論できる人だとこっちの人達に認めてもらうレベルは別だ。僕の場合、後者に関して、もう少し英語のスキルと専門的な内容の知識(話す内容は特に西洋の話題中心になので、西洋の歴史や政治はもちろん取った授業の背景知識。僕の寮はアメリカ人も多いのでアメリカ史について)が足りていないと感じた。そして、日本についてはどうなのかしっかりと把握して、自分から意見を言えるようにすることが必要。はじめのうちはおそらく、だまっていて、話を聞いているのかもわからない奇妙な存在と思われていただろう。

本題の自分がここにいた意味については、現時点で決めるのは難しい。こうして色んな国籍の人にあって、普通にしていれば接することのなかったであろう国の状況やフランス語、オランダ語、ドイツ語(たまにイタリア語)等の文献を要約して発表しあうグループワークによって得ることが出来た情報や知識。彼らに比べて自分に欠けていること。また、彼らから日本はどのように見えているのか。

こっちで出来た友達の国へ休暇に遊びに行ったり、単純計算で1橋梁/weekで見ると決めて必死こいて駆け巡った欧州橋梁の数々。これは予定の50本以上を意識的に見に行くことが出来た。大切なのは留学をして得た結果ではなく、この留学の経験を将来にどう繋げていくかで、これから繋げていく過程で、あの経験は役に立ったと気付くのだと思う。実際自分の専門科目以外にも授業を取ってみた。結果的に想像以上に科目選択の自由度は高かったと思う。これは本当にKULで良かった点だと思っていて、修士以上の授業は全て英語で開講されているし、学生も世界中からきているので、留学生に対するイベントやフォローアップが非常に充実している。周りの人を見ていると留学の仕方は様々で、とにかくヨーロッパのほとんどの国へ旅行する人、黙々と勉強を頑張る人、色んな所パーティーやイベントに出向いては友達を作る人、自分の専門と関係のある国へ行く人。ひとりひとりが自分のスタイルに合わせて学生生活を送っていた。大学は出席なんかとらないし、誰に対しても膨大な授業に関する資料を配布して、勉強する人はして下さい、したくない人はどうぞ(もちろん単位はきません)という感じで非常にドライで、学生と教授の距離も非常に遠い。授業では全くポイントを言わない上に膨大な資料の配布で教え方に対するスタンスがかなり日本と違うと思った。アメリカやハンガリーチェコの友達も同じようなことを言っていてKULで単位を取るのは自分の大学と比べると厳しいと。自分のやりたいことがハッキリしていれば辛いが、取り組む過程で何か吸収できるのではないか。なければ、日本で日本語で勉強していた方がよっぽど知識を得られると思う。

彼らからすれば日本は極東のはずれにある小さな島国。

world map

東京が一方的な成長を続ける陰で、地方はどんどん縮小していて成長一片だった今までとは違う多様な国土のあり方が必要なのではないか。よく外人にも、これからの日本は衰退していくと思うかと質問された。彼らの質問に答える過程で、おそらく今後の日本はその地域にあった場の関係性から昇華してうまれてくる、より成熟した在り方が必要で、それは単純に歴史を繰り返すわけではなく歴史を尊敬したうえでかつ、現代の解釈を加えて空間生成をしていく。調べていて感じたのは、おそらく戦後のポストモダンから都市の根本課題というのはいまだに解決策を模索していて、最近は様々な思想的試みが行われているし、もちろん僕たちの世代は3.11も忘れることが出来ない出来事で、これらの思想と実際に物を創っていく過程で大前提としての抽象論と、どう数値との距離感を縮めながらの生活空間、これは住宅だけでなくこれからは人びとが接続したくなるような都市空間も含めてどうしていくか。もちろん欧州やアメリカからこれらについて学べることもあると思うし、単純にそれを輸入するだけでは失敗するのは目に見えていて。

まだ、どうなっていくのかは具体的には描けないが、そのあたりをこれからどうしていくべきか、もっと話す必要があるような気がする。


Budapest